ワタシ編集局

伊丹、尼崎。街を舞台にした様々な活動の記録です。

本物の国語力

 話始めると延々と続いてしまう人がいます。特に自分の体験をもとにして語ろうとするときにはその傾向が強いです。結婚式のスピーチの話じゃなく、私主催の哲学カフェでよく見かける光景。なぜこういうことが起きるのかというと、基本的には「国語力」の不足に原因があるのです。

 若い人に国語力が足りないとよく言われますが、年配者、高齢者でも同じことで、むしろ高齢者ほど国語力がないのでは、と思うことが多いです。国語力とは、聞いている人、座にいる人に伝わるように話す(文章なら読み手にどう伝わるか)力のことを言います。座にどういう人が参加しているかを把握した上で、伝わるように話す工夫をするとなると、言葉の言い換えや補足の説明をしないといけない。それってものすごく面倒なことなので、自然と話は簡略化されていきます。

 高齢な人はいろんな立場、職業、人生観の人が混在している場に慣れていない。同質な人の集まりしか経験していない人が多いので、その傾向がことさら強くなるということはうなづけると思います。

 で、こういう能力って同じ年代の似たような境遇の子供が集まった学校の教室では絶対に身につけることができないんですね。国語の成績が良くても、その人が「国語力」があるという証明にはならないんですよ。ということを自分自身の身に照らして痛感する。

 いろんなバックボーンを持った人の集まり、凸凹な場に参加して、よりよく伝わる工夫をしながらしか、身につけることができない能力。それが国語力の本質だと言えましょう。

 手話通訳士が国語の学習を熱心されているというのもうなづけます。